2018.02.18

Maruhachi那の津プロジェクトのストーリー《五島正樹さんインタビュー》

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プロジェクトリーダーであり、株式会社リーシングサポート常務取締役の五島正樹さんにお話を伺った。質屋だった元丸八質店が、様々な個性が集まるスモールオフィスとして再生しようとしている今、リーダーとしての心境はどのようなものだろう。いまに至るまでのストーリーと共に伺った。

「ボートレース場横の物件を活用してほしい」と、この建物を所有するオーナーさんから依頼があったのは、2017年の春ごろ。これまで天神2丁目や3丁目の大きな商業施設やデパートが並ぶ華やかなエリアをメインに不動産仲介業をおこなってきた五島さんは、「街なかのエッジとも言える特殊な場所『那の津』は、ノーマークでした。」と語る。

夏ごろには1棟貸しで入居テナント募集を始めたが、那の津の商売に縁遠いような印象もあってか、これまでつながりのあった店舗など既存のクライアントの反応は悪かったそうだ。
五島さんはこれまで、貸したい物件オーナーと借りたい店舗主をマッチングさせる仲介のみをおこなってきて、物件を借りて運営する当事者ではない立場で仕事をしてきたが、今回は思い切って「自分が当事者になってみよう」と考えた。不安を抱えながらのスタートだったと言う。

那の津の周辺リサーチを進めていく中で、須崎公園がある天神5丁目や那の津を含めた北天神エリアには、スタンダードマニュアルさんなどのこだわりある店舗やクリエイティブな仕事をしている方のオフィスが点在していることがわかってきた。

その北天神の息吹を感じ、芸術文化の発信地だった土地の文脈や元質屋という舟券を握りしめた人たちが出入りしていた物件の物語を活かしながら、さらなるカルチャーへ発展させていくべく、Maruhachiのスモールオフィス計画が決定した。


「那の津」という地名の歴史はとても古く、2000年以上昔から現在まで使われている。薩摩の坊津、伊勢の安濃津、博多の那の津が日本三津と称されて、中国や南方諸国との玄関口となって栄えた貿易港だったそうだ。現在の那の津は、もとは海岸線だった場所で、埋め立てによりつくられた。
1953年には、福岡競艇場でボートレースが初開催され、1964年には、須崎公園内に福岡県立美術館の前身である福岡県文化会館が開館した。1960〜70年代には、野外音楽堂を中心に音楽やアートシーンが盛り上がったエリアだ。ちなみに、街中に競艇場がある地域は珍しく、平和島競艇場(東京都)と並んで「都市型競艇場」の代表格としてあげられる。
さらに、2025年にはこの辺りにロープウェイの駅をつくる構想も福岡市から発表されている。Maruhachi始動の6年後と、近い未来の話だ。

例を挙げれば、工場跡地だった場所にキャナルシティできて人が集まる場所になり、暗くて危ないイメージだった清川が、隠れ家的な上質のお店が集まる場所になったように。
「これから那の津らしい街の変化を一緒につくっていくような人たちに入居してもらえたら嬉しいですね。そういう感度の高い人たちが、カルチャーそのものになっていくのだと思います。Maruhachiを居心地のいい場所に変えていってほしいです。」と語る五島さん。

この長い歴史と新しい取り組みとが交差する場所で、Maruhachiがムーブメントの火付け役を果たす日は近いのではないだろうか。

さて、五島さんへの真面目なインタビューの最後には、「いやーいろんな失敗ありますよ!」と、ちゃめっけのある一面とやわらかな笑顔が垣間見れた。
五島さんの熱い思いが、Maruhachiでのディープな出会いと那の津カルチャーの盛り上がりにつながっていく未来が見えてくるインタビューだった。(山下舞)

2018.02.18 | Posted in BLOG | |

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